アフリカとの出会い47

 マサイの企業戦士
   

  アフリカンコネクション 竹田悦子
 
 マサイ族は日本で有名な民族の一つだ。現代も伝統的な生活様式を守り、赤い布をまといサバンナを盾と槍も持って、国境を意識せずさすらう民として知られている。私もケニアに行く前は、「マサイ族はケニアにもいるのか。是非サバンナで会ってみたい」と内心思っていた。ケニアに行く前に唯一イメージのあった民族、それがマサイ族だった。

 ケニアには52もの民族が住んでいる。人口3,800万人の21%を占めるキクユ族、14%のルヒヤ族、13%のルオー族、11%のカンバ族、11%のカレン人族が主要5民族で、それ以外の47民族は10%以下の少数民族となっている。マサイ族は、ケニア・タンザニアの国境付近を主に牧畜しながら移動する民族で、23万人ほどではないかと推測されている。

 私の寝泊りしていた孤児院は日本人スタッフ1名のほかはすべてケニア人スタッフだった。校長先生はキクユ族、保育士さんはキクユ族、秘書さんはマサイ族、寮母さんはキシー族、警備員はマサイ族という構成だった。孤児院のあった町は、もとはマサイ族の放牧地であったが、少しずつマサイ族が土地を切り売りしていって、商業地となり住宅地となり、サバンナから町としての原型が出来上がっていった。首都・ナイロビももともとはマサイ族の土地で、マサイ語で、「冷たい水」という意味だそうだ。他の場所の名前でもマサイの名前が付いているところは、マサイ族の土地だった名残りだ。

 孤児院から30分も歩けば、今でも伝統的な暮らしを続けるマサイ族が多くいる場所に着くが、首都ナイロビはケニア国内各地から仕事を求めてやってくる人たちのベッドタウンとなっていた。そのため、ナイロビはマサイの土地ではあったけれど、さまざまな民族が入り混じって生活をして、それぞれの民族はそれぞれの部族語を話す為、会話はスワヒリ語や公用語の英語がよく使われていた。その中でも圧倒的に多いのが、キクユ族出身の人たちだ。キクユ族は農耕民族で、中央ケニアと呼ばれるナイロビを含む白人入植者が大規模農園を展開したエリアに多く住んでいた。そのため独立する為に白人と戦い、その戦士たちはマウマウと呼ばれ、今でも英雄だ。最大部族としての誇りがそこにはある。

 私の夫もキクユ族である。キクユ族は、農村で生活するため共同体の意識がとても強い。商売が得意な彼らは、農村を離れ、どんどん都市部へと進出し、政界・財界のあらゆるところでリーダーシップを取っている。そんな彼らがマサイをさして言う言葉は下記のようだ。

 「君の考えはまるでマサイだ!(=直感で何の根拠もないの意味らしい)」

 「そんな態度なら、牛のおしりを追いかければいいじゃないか(=君はビジネスに向いてない)」

 等々、これらの言葉にはマサイ族のことをそういう風に見る傾向がたまにあるということだ。

 伝統的なマサイの生活様式は、近代化するケニアの国家政策に合わない面もある。子供に義務教育を受けさせない、女子教育への差別など。加えて女子の割礼や野生動物のいる国立公園への立ち入りなど。

 しかし、マサイにとって牛が財産であることは今も昔も変わっていないにしても、教育へ投資したり、ビジネスをしたり、土地を売ったりして、どんどん資本主義貨幣経済へ入っていくマサイ族もいる。また観光客を相手に、家を見せたり踊ったりして、外貨を稼ぐ観光マサイという職業もある。私の知るマサイのビジネスマンは、週日はナイロビで会社を経営し、週末は放牧のために村に帰る。起業する前は、マサイの戦士として生活していたと言っていた。耳に大きな穴を開ける習慣のあるマサイの男性。その穴とその話を聞くまでは彼がマサイの戦士だったとは想像できなかった。

 ナマンガというケニア・タンザニアの国境の町へ小旅行したときのことを思い出す。私はケニア側にいて、パスポートを提示し、入国許可を得る為にお金を払い、出国と入国のスタンプをもらった。国境といってもフェンスだ。そのフェンスもどこまでも続いているわけでもなく、あるところから途切れていた。そのフェンスの切れるあたりを赤い衣装を着たマサイ族が牛を追ってゆっくりと国境を越えていく。国境を素足で、牛を追いながら毎日行ったり来たりしている。

 ナイロビでビジネスに明け暮れる元戦士のマサイ。

 孤児院で、警備の仕事をするマサイ。

 国境を素足で放牧するマサイ。

 どれも今のケニアを映し出すマサイの姿だ。

 どこで彼らを見るかによってマサイの印象も変わるだろう。私の印象は、孤児院の子供が熱を出したとき、何も見えないような、まっ暗闇を、子供を抱えて病院へ運んでいったそのうしろ姿だ。その赤い衣装の下に伸びる細く長い足が、闇の中へ進んでいく、「勇敢」なその姿だ。


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